園長より

学校法人浄泉寺学園では、年度のはじめに園長より教職員に向けたメッセージを「学園発展計画書」として発表しています。
ここに掲載したものは、2012年4月のものです。
園長の信念が書いてあります。学園の方針としてお時間のある方はご覧いただければ幸いです。

私たちの幼稚園の目的

「国家百年の計は教育にあり」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。国の未来は教育にあるという意味です。

つまり私たちの未来は教育内容に依っていると言うことです。
元来は、「

一年の計は穀を樹うるに如くはなし
十年の計は木を樹うるに如くはなし
終身の計は人を樹うるに如くはなし

」という管仲という古代中国の思想家の言葉です。
「終身」と人の一生に例えて言うならば、教育は国家の根幹であり人を育てることに及ぶものは無い(=最も大切なこと)ということです。
しかしながら、この現代日本に於いて、国家百年の計を思う政治家は存在するようには思えません。

平成21年には国民の期待を背負い新たな政権が誕生しましたが、全くの期待はずれ烏合の衆、利益誘導我田引水、国難を招き日本という国の力をそぐことばかりに注力しているかのようにも見えます。
図らずもその無策は平成23年(2011年)の震災によって露呈した感がありますが、今日・明日のことだけに目を奪われ、一年先・十年先のことさえ考えられず、目先の事に右往左往しているのが現状です。
先を見通せず見通そうとせず場当たり的思いつき(しかも余計な!)です。
しかし、そのような世間にありながら、私たちは、子どもの未来に責任を持つことが使命であり、将来に責任を持てる教育を行うことを由とする存在です。

私たちの幼稚園のことを、そこに集う子どもたちを本気で考え、どうあるべきか、どうしたら良くなるかを考え提案できる人は、私たち幼児教育にかかわる者を置いて他にありません。
私財を人生を青春を投じて実践してきた私たちがやるのです。

何をどう思ったか、ある人がこう言いました。「幼稚園は金儲けでやっているのだろう」と。
全くナンセンスなことです。少し頭を使い、統計や数字を見れば分かることですが、新規参入など全くない、逆に廃業・休園ばかりが相次いでいる業界です。
経済性だけで見れば顧客は減り続ける「超斜陽産業」です。
経済だけを考えたとき、新しく会社を作るように新規に幼稚園を立ち上げる人など居ないのです。
なぜなら、リスクは高い上にリターンなどほとんど無いからです。
むしろ、既知の通り寄付行為と言って、私財を投げうたなければ幼稚園をやってはいけないのです。
しかも、もし何らかの事情で園を止めるときには、寄付行為を行った以上、それらは国のものとなっているのです。返却はされないのです。
だから、一方的持ち出しです。マイナスです。

では、なぜ幼稚園をやるのか。

子どもを育てる。
しかも、赤の他人の子どもを「良くしたい!」と願いを立て、育み、それに生き甲斐を感じ、歓びを得る。
この国の将来を担う幼児教育に情熱を燃やし、青春の貴重な時間を賭し、使命を持ってやり続けられるのは幼稚園の先生だからこそなのです。
言ってみれば損得勘定から遠く、全く離れたところにあるのが私立幼稚園なのです。

先に述べた通り、私立園ではまず寄付行為から始まります。
個人の財産を投入せねば始めてはいけないのです。
社会全体が貧しい中、個人の財産を投入してまでも思う先達の願い、仏教的信念を以て「子どもを良くしたい」という願いがあって、この洗心幼稚園が設立されました。
初代の園長である佐野良澄の願いが今もここに生きているのです。
だから、私たちはまずそれを念頭に置くべきです。
なぜなら尊いその理念がなければ私たちが今ここに集う理由などないのですから。

 

一年先、十年先の日本が、百年先の日本が、あるいは世界がどうなっているかは分かりません。

2011年の3月10日までは誰もが11日の惨状を思い至ることはなかったのです。
しかし、今ここにあって、十年後、あるいは百年先の一人前の社会人、大人としての日本人がどうあるべきか、あるいはどうならなければいけないかは分かるのです。
いま、眼前にいる子どもたちが大人に成ったとき、父親・母親となったとき、どんな人間であってほしいか、どんな日本人であってほしいかの姿は思い描くことが出来るのです。
その思い描く姿に想像させるビジョンに保護者は共感をし、数ある私立園から私たちの園を選択してくれるのです。

どんな子どもに育ってほしいか、どんな人になってほしいかの最終的な目標、最終立脚地・目的地、これがなかったら園の存続の意味も価値も、教育も失うのです。まずは、【目的】なのです。

理念・教育目標・方針、それらすべてに誇りを持つのです。
ここに集う私たちはそれに賛同できる人でなければいけないのです。だから、賛同できる人だけがここに居るのです。

 

人間以外の生き物は、そのほとんどが生まれてからきわめて短期間に一人前に成長します。
犬は生まれて1週間もすれば自分で歩くようになるのです。
鶏は卵から生まれる前から、殻を自力で割って出てくるのです。
そして生まれた瞬間から立って歩くのです。

競走馬は、1年もすれば競走馬としての仕事をするのです。
ウミガメは砂浜に卵を産むと親としての役割は終わるのです。
生まれ来るウミガメの子どもは、親を知りません。子育てを一切しないのです。

そして、多くの生き物は子育てを行いません。

つまり、親から教わるという教育がないのです。
もしあっても、その時間が極端に短いのです(逆に言えば、人間が極端に長いとも言えます)。
生まれた瞬間から自立できるように作られているのです。

 

翻って人間の場合、3歳の子どもを保護無く外に放り出したら、たちまち死にます。

他の動物で、親が10年も20年も子育てする存在はありません。
幼稚園教育から4年制大学まで行ったと仮定し、計算して、19年も教育を受ける生き物は人間だけです。
人間は生まれて自分の力で生きていけるようになるのに時間がかかる。
他の生物は生まれてすぐに自分の力で生きられる。
もちろん他の生き物に食べられたり、餓死する環境によって死ぬことも多いのですが、それでも生存競争に勝ち抜いて生きながらえる力が与えられています。
あらゆる生物は自分の力で生きていけなかったら、生存すら出来ないのです。

ただこの一点だけを考えてみても、子育て・教育の目的は自分の力で生きていく、つまり「自立できる人間を育てること」にあると言えます。

親がどんなに愛情を注いで子育てしても、やがては老いて先に死んでいくのが道理です。(そして、子より先に死ぬことが幸せなことです。)
無論、逆縁もありますが、すべての人間は老いるのです。
この流れには購えないのです。
後に残された子どもが大人に成ったときに、自立できていなかったならば、死にゆくのが道理です。
そして行く末は人類の滅亡です。
すべての命は次世代へと引き継がれます。
もし、次世代へのバトンが渡されなかったならその種は絶滅するのが理です。

 

故に、自立を目的としない教育は何の価値もありません。

他の生物が持つように、人間も同じように自立する情報=DNAを予め持たされているのです。
ただ、他の種と決定的に違うのは、自立するまでに必要な期間が極端に長いことです。
自立までの時間が長いと言うことは生存する上では大変なリスクですが、逆にそれ故にこの期間の教育が人間を人間足らしめているのです。

嘗て、日本の教育、あるいは、世界のすべての教育は、自立を目的とした教育でした。

そして未来もそうでなければ成りません。
しかし、日本の教育は、子どもを甘やかし自由と平等の名の下に我が儘をも許し、無能さえも個性と曲解してきました。
利己的、個人第一、俺が良ければいい人間を育ててきました。
周りの人よりも自分なのです。
世のためよりも自分のためなのです。
こんな考えの大人ばかりが増えていったことを想像すれば、悲惨な世界だけが広がることに思い至ります。
もしそんな大人が指導者になったら、社会が国が良くなるわけがありません。

 

だけれども、いくら自立できても、悪事の上の自立では意味がありません。

人としての自立です。
さらに言えば、世のために尽くせる人間になるのです。
日本の伝統文化に、たとえば「世のため人のため、弱きを助け強きを挫く、万物に命が宿る、一寸の虫にも五分の魂・・・」そういった古来の伝統に誇りを持つ立派な人間を育てることにあるのです。

 

近年、親子関係が変質してきています。
親子も友だち関係が望ましい。
友だちのように仲良くしたい。そう思う親が増えているそうです。
そう願う親が先生と生徒も同様の関係を求める。
あるいは、先生が求め先生と生徒が友だちのような関係を築く。
果たしてそれで子どもたちが自立できるのでしょうか。
親が先生が、子どものレベルに成り下がって友だち関係を築き、それで教育がなしえるのでしょうか。

困難は避け、障害は取り除いてやり、舗装され整地された道を歩ませるのが子どものためなのでしょうか。

試練を避け、負けるとかわいそうなどと競争は悪と決めつけ、地域や国を愛することまで否定し、ぬるま湯の心地よい温室で蝶よ花よと育てるのことが、一人前の人間として育てることになるのでしょうか。

男女平等の思想のもと、母性を下に見て母の偉大さを否定し、男の正義さえも嘲笑い男の義務責任の遂行さえも求めず、果たしてそれで子どもがどれだけ育つのでしょうか。
社会や国がどれだけ良くなるのでしょうか。
無論、成るわけがありません。
断じて、根本の思想が間違っているのです。
子育ての、教育の目的は、子どもの可能性を伸ばし、人間としての基本たたき込む。
延いては自立できる立派な日本人として育ててやることです。
私たちの教育が日本の未来を背負う子どもたちを育てます。
卒園していく、この子たちが日本を支える希望となるのです。この国の新しい歴史を創造するのです。

嘗て、教育とは「情熱」であるといった人がいました。
この幼稚園で働く人の情熱です。
教育、つまり子どもを育てる上で必要なものは、知識・技術・情熱の三つが主体となりますが、その中でも最も重要なのは「情熱」だというのです。

先に寄付行為ありと言いましたが、財産を投じるということは、時間を投じることでもあります。

時は金なりというように、時間は財産です。
若さが貴ばれ羨望の対象になる所以です。
その財産を使って使命を全うしているのです。
人生をかけられる人は本気になれるのです。
いや、本気にならざるを得ないのです。

 

私たちは私立園です。
私立園は情熱を持ち教育熱心でなければいけないのです。

なぜなら、子どもが減ったら園がつぶれるからです。
賞与も給与も出ないのです。
だから本気でやるのです。

責任のない人には、結果を要求されません。
幼児教育も同じです。

たとえば現在の保育所制度では、需給のアンバランスから、園児・生徒募集に関係なく子どもが集まります。
子どもの能力を伸ばすことが出来なくても、子どもが出来てるようになっても出来なくても、逆上がりが出来ても出来なくても、絵本が読めても読めなくても、仕事の達成度に関係なく子どもが集まるのです。
まして公立保育園の公務員なら、そつなく何事もなく過ごせば、たとえ結果が出なくても昇給もするし賞与もでるし、動きが悪かろうが腰が重かろうが定年まで勤めて多大な退職金をもらうのです。
反社会的なことをしない限り解雇もされないし、評定が下がり給料が下がることはありません。
仮に園がつぶれても身分保障され、配置転換され仕事を失うこともない。
情熱があろうがなかろうが、結果が出ようが出まいが、自分の行いに対し責任をとらないでいい組織が公立です。
こんな無責任な組織があるでしょうか。
身分を保障されるということは、結局努力しないでよいぬるま湯体質になるのです。

翻って、私たち私立幼稚園はどうでしょうか。

約束したこと、言ったことには責任が生じ、結果は評判として、あるいは様々な数字として評価に表れるのです。
私たちは結果を出す私立園です。
出すことが使命の私立園です。
目標は目的ではありませんが、必ず達成するという意志が必要であり大切なのです。

結論として、私たちの幼稚園の目的、使命は、子どもを自立できる人間にすることです。
ごく簡単に言えば、いつも幼稚園でしていることです。
それは、「自分のことは自分で出来る」ように成長させてあげることです。
もしこの子達が大人になったとき、自分で考え行動し、精神的にも、そして自分の食い扶持は自分で稼ぐといった経済的にも、ひとりの人間として生きていけるようにしてあげることです。

ただここで、仏教的思想で言えば、「人は自分だけでは生きられないことを知る」ことも大切であるのです。

私たちは人に限らずありとあらゆるもの、他者に迷惑をかけ、そして他者の命を奪わなければ命をつなぐことすら出来ません。
また、人間という字の通り、人の間=社会でしか生きられないのです。
しかし、それの意味するところは、だから何もやらなくていい、しなくていい、無為に過ごせということではありません。
良薬があるからと言って好んで毒を喰らうことのないように、人に迷惑をかける存在だから好んで迷惑をかけて良いということを意味しません。
他者に迷惑をかけ、命を奪い、社会でしか生きられないと言うことを知らされるが故に、だからこそ各人が持てる力を持って、互いに支え合って生きていくこと、つまり世のため人のために生きると言うことが必要であることを教えているのです。

だから、私たちは、私たちが出来ること、つまり幼児教育を以て社会に対し貢献することが人間社会を支えること(=世のため人のため)でもあるし、それは同時に、私たちが支えられることでもあるのです。

幼稚園の先生は世界でもっとも尊い職業の一つです。
子どもを育てる仕事ほど尊いものはありません。

そして、世界最高の「仕事」の第1位は「お母さん」、第2位が「幼稚園の先生」です。(なぜか? 国家百年の計から答えは自明です。)
子どもの将来に、良いも悪いも大きな影響を及ぼす存在は、情熱を持ち私財をかけ使命を全うする「子どもを良くしたい」と本気で信じ仕事をしている私たちです。
このことは余人に持って代え難きことなのです。

子どもの未来をつくるのは、私たちです。
そしてそれは同事に「私たちの未来をつくること」、それが社会に対し貢献することでもあるのです。